読書について

「読んだことのない本を堂々と語る方法」をアマゾンで調べた時に、also you may like…で表示された本、岩波文庫の「読書について」/ ショウペンハウエル著を読んでいます。

以下、本の表紙の言葉です。


「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」ーーー 一流の文章家であり箴言(しんげん)警句の大家であったショウペンハウエル (1788‐1860)  が放つ読書をめぐる鋭利な寸言、痛烈なアフォリズムの数々は、出版物の洪水にあえぐ現代の我われにとって驚くほど新鮮である。


150ページほどの割と薄い本で、中身は3つに分かれています。

「自ら考えること」「著作と文体について」「読書と書物について」

「自ら考えること」では、著者は「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである」と言っています。

そうですよねー。言われてみたら本当にそうだ。

私が個人的に興味を持ったのは、10ページ目

「自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び自説の強化に役立てるにすぎない。ところが書籍哲学者は他人の権威ある説から出発し、他人の諸説を本の中から読み拾って一つの体系をつくる。」

この分を読んだ時に、ふと羽仁五郎氏と鶴見俊輔氏のことが思い浮かんだのです。

大好きな鶴見俊輔先生のことを「書籍哲学者」のほうに当てはめてしまったのは軽率かもしれないですが、過去の鶴見先生の言葉の中に、羽仁五郎氏に対しての一種超えられない部分というか、憧れにも似た表現を見ていたので、これってそういうことなのかな?と思ったりしました。

~鶴見俊輔botより~

指一本でも持ち上げるようなことをしたいと思って、私は戦争の最後の月日を暮らした。何もしなかったのだが、何もしなかったという記憶だけは、手ばなさずに今日まで残っている。羽仁五郎の著作の自分に対する影響は、自分が何もしなかった記憶を保ったということにつきるといえる。「二つの日付け」

思うに、ある時点までは鶴見先生も、ショウペンハウエルの言うところの「書籍哲学者」的な部分があったのかもしれません。全くの憶測ですが。私は鶴見先生の羽仁五郎氏に対する敬意を持った上記の表現が大好きです。


3つめのカテゴリー「読書と書物について」では、

「書物を買い求めることは結構なことであろう。ただしついでにそれを読む時間も、買い求めることができればである。しかし多くのばあい、我々は書物の購入と、その内容の獲得とを混同している。」

1788年生まれのショウペンハウエルも、読まなければという本について悩み、またその時間を捻出することにも苦しんでいたようです・・・

「悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。」・・・とのことです。



読書について 他二篇 :ショウペンハウエル著 /  斎藤忍随(にんずい) 訳(岩波文庫・青)