溜飲が下がる思い

2015年6月25日のインシュアランス(保険の業界紙)に、「対案を出せ!!」とのエッセイが載っていましたので、主な部分を抜粋します。


自らの主張が批判されたときに、待ってましたと言わんばかりに「そんなことを言うのなら対案を出せ!!」と主張する人がいる。

「対案なき批判は単なる愚痴であり意見とは言えない」更には「対案なき批判は誹謗中傷だ」とまで言う人もいる。

先日、あるテレビのコメンテーターが、「某党の主張には対案がないが、○○氏の主張には対案がある」といった具合に、対案の有無だけを価値判断の基準としているかのような発言をしていた。

なにか議論の本質からはずれ、大切な論点を見逃している意見のように思われ、心配になったので少し考えてみた。

対案が必要な場合というのはどのような場合なのだろうか。例えば、「ある案」が出されたときに、その案の問題点を指摘して反対する場合、もっと良い案があるならそれを対案として示すべきことは言うまでもない。

しかし、その「ある案」よりも現状維持のほうが良い(または「まし」)と考えられる場合には対案を示す必要はないはずである。また、その案に緊急性がない場合なども、さしあたり対案を示すことなく問題点を指摘することは十分に考えられる。よく考えれば、ある意見に対する批判者が常に対案を用意しなければならないということはない。

結局のところ、生産的な議論や意見交換と言うものはその根拠をしっかり示すことが前提であり、決して対案を示すことではない。しっかりした根拠が示されている批判に対して、「そんなことを言うのなら対案を出せ!!」という場合は、往々にして言い逃れをしているに過ぎないことが多い。

このようなケースでは、「対案を出せ!!」という主張が、自らの説明責任を放棄するための言い訳として利用されていると見るべきであろう。

表面的な言葉のやり取りに惑わされずに、主張内容をしっかりと吟味することの大切さを改めて感じさせられる昨今である。





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