山河破れて国在り
学者の姜尚中(カンサンジュン)氏が、フクシマになぞらえて「国破れて山河在り、ではなく「山河破れて国在り」ではないですか」と以前おっしゃっていました。
杜甫の漢詩である「春望」
山河と国を置き換えてみましょう。
山河破れて 国在り
城春にして 草木深し
時に感じては 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 万金に抵たる
白頭掻けば更に短く
渾べて簪に勝えざらんと欲す
[訳]
山や河は崩壊してしまったが、国は変わらず
フクシマには春が訪れ草木が青く茂っている
時世の悲しみを感じては花を見ても涙がこぼれおち
家族との別れをうらめしく思っては鳥の鳴き声にすら心を痛ませる
幾月が経ってものろし火は消えることはなく
家族からの手紙は万金にも値する
白い頭を掻けば掻くほど髪の毛が抜け落ち
まったくかんざしを挿せそうにもないほどだ
「原発さえなければ」
自殺してしまった農家の人の言葉だ。
何もそこまで思いつめなくても、命があればそれでいいではないかと思うのは、当事者でないからです。
私達は、驚くほどフクシマの人達の苦しみや悲しみを知っていない。
原発事故から丸5年経って、私達が改めてやらなければならないことは、そこを追いやられた人達の苦しみや悲しみや絶望にとことん付き合うことだと思います。
それらの感情が否定されたままだと、決してそれを乗り越えることは出来ません。
もっと怒っていい。もっと悲しんでいい。それらの感情を克服出来てきていると当事者が感じることが出来ることが、本当の意味での復興です。
フクシマの人々の怒りや悲しみに、私達もとことん共感すること。
出来るよ。なんでかって?だって、私達にも同じように「ふるさと」があるではないですか。
同じものを持っているのだから、想像することは出来ると思う。
それが私達が出来る復興への手助けです。
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