早期英語教育について

文部科学省は、2020年度より小学3年生から英語を学ばせるということを決定しました。

週刊AERA2016年10月17日号に載っていた内田樹氏の巻頭エッセイです。


小学3年生に英語を教えるとなると、当然オーラル中心になる。子どもは日本語そのものがまだ不自由であるのだから、文法や英文解釈はむろん教えることができない。幼児が母語を習得する過程を、高速度で再演するほかない。

だが、これが植民地における言語教育と同一構造であることを忘れてはいけない。

植民地で現地人に求められるのは「宗主国(支配する方の国)の命令を理解できる程度の語学力」、脊髄反射的に使える語学力だけである。それ以上の力は求められていない。

~中略~ 植民地人に宗主国が求めるのは、「宗主国民の命令は理解できるが、反論はできない程度の知力」「植民地で出世する方法は知っているが、その不当性は認識できない程度の知力」である。

会話能力開発を優先させるのは、この要請に応えるためである。

会話能力こそが語学力だというルールを採用している限り、宗主国民の植民地人に対する知的アドバンテージは揺るがない。あらゆる会話において、植民地人が何を論じても「われわれはそういう言い方をしない」の一言で黙らせることができるからである。


私は、大学では英語学科を選びましたので、この方面の話題には持論があるのです。

シンコーミュージック系の音楽雑誌を読んで、今泉恵子さんと大貫憲章さんのラジオを聞いていましたからね。今泉さんのようになって海外のミュージシャンと会話をするのだと思って英語は特にがんばりましたね。でも、自分で言うのもなんですが、そんなに努力しなくてもすんなり覚えられましたね。中・高くらいの英語でしたら。

それはやはり、目的意識が強かったからだと思います。メロディーだけでなく、「この人の伝えたい言葉を理解したい」という思いが強かったからだと思います。

ですので、そういう目的がない中で、ただ「就職の際に有利だから」とかいうことでがむしゃらにやったとしてもですね、じゃあそのあとどうする?ってなるんですよね。

私の場合、大学の途中でもうここらへんで英語の勉強はいいかなと思う時期があり、その頃に英語を熱心に学ぶことをやめてしまったのですが、そのきっかけとなったのが姉の言葉で「英語はただの手段でしかないから。それを使ってどうするというものがないと。」というのを聞いて、「これだ!」と思ったのです。自分の限界に気が付いた姉のうまい言い訳に、私も「もっともだ」と飛びついたんですね(笑)

でも、今振り返っても、この選択は正しかったと思っているんです。あそこで英語を覚えるということに執着してある意味無駄な時間を過ごしていたよりも、その分ライブハウスに通っていたほうが実りが大きかったので。

でも、英語と同じくらいに大事に思っていたのが日本語で、日本語がもっとうまくなりたいという思いは今でもあるのです。特に力を入れたいのが、短い文章の中でいかに伝えたいことを伝えられるかという技術。これが難しいんですね。難しい言葉を使わずに、読んでくれる人が退屈しない長さで読み切ることができ、自分の言いたいことを言い切る。「天声人語」的な文章です。

天声人語の人が講座をやっていたりするのを見かけて、「行きたいなー」とか思っているのですが。

英語の話に戻りますと、やはり英語よりも母国語をどれだけ操れるかのほうが大事かなと思います。ぶっちゃけた話、手段としての英語という意味では、しゃべれる人を連れてきてしまえば、自分自身がしゃべれなくても解決してしまうのです。そして、ただしゃべれるという人であれば、探せばいますし、必要な場所であれば自然とそういう人が来ます。

ですので、今小学生・中学生・高校生のお子さんを育てているお父さん方・お母さん方、そんなにむきになって英語を覚えさせる必要はありません。

それよりも、自分の考えを言葉にして相手により良く伝えられるだけの日本語の能力を身に付けること、そしてそのためにはその「自分の考え」というものをはっきりと持つこと、のほうに力を注いで下さい。