教育と戦争責任について考える
東京新聞に掲載されていたマエキタミヤコさんの「紙つぶて」の記事を読みました。
ドイツでは民主主義が育ったのは、「コンフォーミスト教育」をやめたからなのだとのこと。(※コンフォーミストとは、順応者とか従う人という意味で、自分の意見を言わずに権力者に従う人のこと。コンフォーミスト教育は、こうした人間を生みだす教育のこと。)
マエキタさんは、ドイツのエネルギー政策の重要人物(ヘンペルマン氏)の言葉を紹介していました。
その中で最も重要だと私が思ったのは、「ドイツ国民は敗戦後、戦争をヒトラーだけのせいとは考えずヒトラーを生んだ社会のしくみ、教育のせいと考えた」というところ。
私達日本人に置き換えて考えてみてください。
私達は、戦争の責任に対して、誰か特定の人の責任にしていませんか?
「自分の責任」だとは考えていないはずです。
「悪いことを『悪い』と言えない」教育を受けてきたのです。
それに気が付くのは、このように独学で勉強をしている人達だけなのです。
悪いことをしたら悪かったですと反省するまでだ。
自分には自分なりの理由があったなんていうのは言い訳にならないのだ。
本当に相手に気持ちが伝わるのならば、土下座でもなんでもするだろう。
自分自身の問題として、物事を主体的にとらえない限り、民主主義は獲得できない。
自分ではない誰かがやったこととして国の責任を考えるのならば、今後もただ従属していくだけだ。
イクサバタ先輩のリツイートで「NHKで「この世界の片隅に」の特集やってますが、もう相変わらずな、「庶民は無垢な被害者」史観で、なんなんだろな。
その無垢な庶民はみんな戦争を追認して、出征していった男どもは海外で何をしていたのか。
その視点がないならファンタジーだよな。まあファンタジーなんだけどこの映画。」
というのを見かけて、これだ、と私は思いました。
あの映画は、前提としてもう「あがらうことの出来ない状況」を肯定してしまっているところに私は違和感を感じるのだ。
もちろん実際の戦時中になったら、あがらうことは困難で、それ自体は真実だ。
しかし、「あがらうことの出来ない状況」を最初から肯定していてはいけないでしょう?
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