監督の義務があるから
離婚の話が出てきてから、元ダンナに言われた言葉のうちの一つ。
「かっちゃんて、自分のことスゴイ人だと勘違いしてない?」・・・って言われたんです。
私はスゴイとかスゴクないとかじゃなくて、違うんじゃないの?こうなんじゃないの?ということははっきりと言うけれど、人によってはそういう言い方で他人をやり込めようとするんですね。
改めてはっきりと言おう。私は、自分のことをスゴイ人だとは思っていない。
しかし、自分がこうだと思ったことははっきりと言う。それだけの話だ。
大人だから、先生だから正しいことを言うなんて、小学生の頃からそんな風に思っていませんでした。
でも元ダンナは、私が保育園の先生に何か意見したりすると「先生に向かってそんなことを・・・」とか言う人で、内容のほうには耳を傾けない人だったんですよね。
結果的に、あの人が必要だったのは、「私という内容」ではなかったのだと今では思います。
なんでこんな話をしたのかというと、力のある人の言うこと・やることにあまり疑問を感じず、そういった人達に疑問を呈したりすることが悪いかのように感じる人がいたら、これだけは間違いではないからはっきりと申し上げておきたいから。
きのうの国会前での抗議行動での、学者の中野晃一さんの「究極的な監督義務者である有権者の力で追い出そう。マスコミも監督義務者。遠慮せず無能と書いてほしい」との言葉を見つけたからです。
私達有権者は、権力者に対して監督の義務を持っている者なんです。
監督をするのです。そして、それは「義務」なのです。
だから、私がえらそうかどうかは知りませんが、あーだこーだと批判・批評するのは当然のことなのです。だって、それは「義務を果たさなければならない」から。
えらそうに・・・なんて言わないでよ。当たり前のことしているだけなんだから。
(例えば保育園の先生うんぬんにしても、私は親なのだから、子ども達に対して監督の義務・責任があるから、責任を持った者が意見を発するのは全くおかしなことではないではないか。時にそれが相手の親だったとしても、責任があれば言わねばならぬこともある。この人は責任感が強いのだとわかっていれば、元ダンナは理解出来たはず。
それがわからなかったのなら、あの人は責任感が薄かったということになるだろう.。⇒こう言うと「言い方ってもんがあるだろう」と、話がずれていくネトウヨ方程式になる⇒とにかく、内容に向き合わないってこと。)
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