「知る」ということ ( part2 )
日野原重明先生の「十歳のきみへ」からの抜粋。
きみたちは名前を聞いたこともない遠い国のことでも、たまたまテレビのニュースやインターネットをとおして見聞きすることがありますね。わたしたちのくらしぶりとはまるでちがう様子がそこに映し出されます。うらやましいと思えるくらしもある一方で、爆弾や銃弾にたおれる人たちの悲惨なすがたも目にします。
そんな遠い国の貧しいくらしや、戦火で家を焼かれた人たちのなみだにくれるすがたを目にしたあとで、わたしたちはたいていもう次の瞬間には自分たちの日常に返っています。
目の前にならべられたジュースやおかしに手をのばしていたり、インターネットでゲームの続きを楽しんだり、おこづかいを手にほしかった本を買いに家を飛び出したり、ゆったりと手足をのばしておふろにつかったり、あたたかいふとんのなかにもぐりこもうとしたりしているのです。
まるで、ついさっき見た映像は、テレビやパソコンの画面のなかだけにある世界であるかのように考えてしまっています。そして、それを誰からも責められることもありません。
でも、わたしたちが戦争をいまだにこの世界からなくせない理由のひとつは、ここにあるような気がしてなりません。
ほかの人の痛みや悲しみやひもじさを想像して、それを感じとる力がわたしたちにはすっかりとぼしくなってしまったのではないか、そう思うのです。
自分たちとはちがうくらしをしている人たちの存在を知ったその瞬間から、遠い国のその人たちは、もうわたしたちの見知らぬ人ではありません。それ以前にはなにひとつ知らなかった相手であったとしても、その人たちが同じ地球上で同じ時を生きていることを知った瞬間から、自分とつながりのある存在として、その人たちをもう無視して過ごすことはできない。ほんとうはそうあるべきなのです。
「知る」ということは、じつはこんなに重い意味をもっているのです。知ったからには、知ったことに対して責任が生まれます。なんらかの働きかけも求められるのです。
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