赤目
白土三平先生の短編漫画「赤目」。
時は永禄年間。領主・伊予守(いよのかみ)信平による厳しい年貢の取立てが続いていた。
逆らう者には容赦なく刃(やいば)が振り落とされた。
ある時、子を身ごもっている女の腹の中がどうなっているか知りたいと言って、信平は腹を切り開く。そして、その女の亭主である松造のもとに変わり果てた姿で帰ってくる。
松造は妻の敵を討つことを企てる。
その後も年貢の取立ては厳しさを増し、それに伴って信平の武力による制圧も激化していった。
どうして俺たちは百姓になんて生まれてきてしまったんだ・・・ 絶望する農民の前で、ある僧侶が、それらの災いがウサギを殺してきたたたりだと説く。
赤目様(ウサギ)を殺してはならない、ウサギの呪いが解けた時、我々は苦から開放される、それが現世でなくともあの世ではきっと極楽浄土に行ける・・・というのだった。
人に殺されなくなったウサギはどんどん繁殖をしていった。ウサギは妊娠後30日で子を産み、一回につき5,6匹・年に数回出産が出来る。
ウサギの繁殖に伴い、それを餌とする肉食獣の山猫も同じように繁殖をしていった。しかし、ウサギのほうに疫病が蔓延し、ウサギはほぼ絶滅をする。捕食する対象がなくなった山猫は、人間を襲うようになる。
そして、山猫の兵隊への襲撃に端を発した一揆により、百姓達は城の兵隊の武器を取り上げ、僧侶は「城を落とすのだ!われらには赤目様がついている。赤目様が力をお貸しくださるぞ!死ねば極楽浄土じゃ!」・・・と、一気呵成に百姓達にたたみかける。
実は、その僧侶は松造だったのだ。ついに松造が妻の敵を取る時がやってきた。領主信平に再会をし、メッタ討ちにして体をバラバラにして木に刺し、自分が討った信平の首をずるずると引きずりながら狂ったように笑ってさまよう。
この短編の中には、現代にも通じる重要な問題がいくつもちりばめられています。
生態系が崩れることの恐ろしさ、宗教の妄信的な信仰の恐ろしさ etc・・・
以下、作品中の白土三平先生の言葉より
こうして赤目教はまたたくうちに村から村へとつたわり広がっていった。おそらくたいていの人々は、こんなばかげたことを信じる者の愚かしさを笑うだろう。だが、まんざらわからないこともないのだ。
私はいまだに無宗教でどのような神も仏もおがんだこともないし、信じた事もないがだんだん大きくなり大人の仲間入りをし社会の荒波にもまれてくると自分の力の限界を知らされるような時、多くの人が宗教にすがる気持ちもわからなくもないのだ。例えば溺れた人がたとえ藁でもあればつかまる、あのとおりだったと思う。
現代でも仏教、キリスト教、その他もろもろの信仰宗教を信じている人々の存在することである。まして踊る宗教の人々の、あの無心に踊る姿を目に浮かべれば当時の、人間の条件を全て奪われて最低の状態に追い詰められた人々が赤目教に自分の来世の幸せを求めてこれを信じたとしても不思議はないのではないだろうか・・・
だが宗教を作り、流行させる者は、それらを信じる人と全く別の考えを持っていることは現代も昔も変わらぬことである。
三平先生の言葉の「だんだん大きくなり大人の仲間入りをし・・・」の部分ですが、三平先生はこの漫画を子供に向けても描いているということに気が付きましたでしょうか?(大人だけに発信している言葉なら、こんな言い方はしないでしょう、私の見解ですが)
しっかりと「子供達にも考えて欲しい」という三平先生の目線が示されているのです。
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