当事者かどうかという問題

長男が寝てしまい、二男はテレビを見ているので、その間に投稿します(育児をさぼっているわけではないのだ)


きのう、国会前で例の「保育園に落ちた」のデモに、長男を連れて参加しました。

「あのブログ書かれた方、いらっしゃいますか~?」なんて声が記者からあがっていましたが、まあ、いないでしょう。いても名乗り出ないでしょう。

そんなことはどうでもいいんです。

結構、報道陣がたくさん来ていました。

私も、現役の母親に見えたらしいので、記者に話しかけられました。

記者:「すみません、保育士の方ですか?」(←「保育士の待遇を改善せよ!」の紙を持っていたため)

私 :「いいえ」

記者:「では、保育園に落ちた方ですか?」

私 :「いいえ、落ちていません。」

→記者、言葉に詰まる

私 :「社会的に解決しなければならない問題だと思いましたので来ました」

記者は、当事者でなければ記事に使えないと判断したのか、私の隣にいた60過ぎくらいのおばさんに話を移しました。

おばさん:「私が30年前に保育園を探した時も相当苦労をしましたが、それよりもっとひどくなっていると知り、駆けつけました」

私:「何事も、物事って進化するばかりではないのですね」

・・・その後、おばさんのインタビューで記事のネタを得た記者は、私達の元を去っていきました。


私が駆けつけたのって、当事者ではない人が駆けつけるという部分に意味があると思って行ったのです。

もっとその部分は、取り上げられるべき部分だと思うんですよね。

当事者が問題にするのは当然じゃないですか。

家に帰ってからネットを見ても、「吉良さんが来ていたようだけど、吉良さんも保育園に落ちたことがあるんだって」と、まるで落ちた人は行く資格があるかのような評価をする人もいる。

そして、「どうやらあれは、共産党が組織しているらしいよ」なんて書き込みもありました。

いやいや、共産党がどうのではなくて、実際に行動を起こしていたのが共産党の人しかいなかっただけでしょう。

本当に、抗議することに意味を見出しているのならば、政党など超越して体が動くのではないでしょうか。

家にいて、念仏を唱えているだけでどうにかなるという考えは私にはありません。


この、当事者だけが異議を申し立てる権利があるという日本的な考え方は、今こそ乗り越えていかねばならない重要なポイントなのです。

「自己責任という意識」と「当事者こそという意識」は、つながっています。

当事者ではない人々が考えない限り、絶対に何事も良くならない。

誰かが考えるではないのです。





this must be the place

sisidothecatのブログ